20 12月

あるあるの検証

生徒・講師間「あるある」の続き

一方が「こういうもの」と思う常識も、もう一方にとっては非常識である場合があります。そうなると、表面化していなくても実はトラブルが進行していたりします。

<広告>

 

認識のズレが大きいと、遅かれ早かれ、うまく行かなくなります。「合わない。」つまりそういうことですけどね。穏便にお別れできればまだよいですが・・。

 

何かを個人的に「習う」場合、最初の出会いだけでお互いの心、価値観を推し量るのは、なかなか難しいです。

 

いざ通い出してしまうと、「?」と思うことがあってもそれを直に相手に質すのは勇気が要ります。そうこうするうちに溝は深まるばかり。音楽の習い事もそう。1対1で第三者が入らない、しかも間に子供が挟まってますから、いっそう難しいのです。

 

「これ、、どうなんだろう」「これがふつう?」と思っても、確かめる術がなかなか見つからない。だからレッスンが終わって家に向かう道中、あるいは帰ってからお風呂につかりながらふと、考え込んでしまう。先生の方も、同じ。

 

なぜなんでしょうね~

なんでこんなにスッキリしないのか。

「芸術」だからでしょうかね。

・・と、思うこと自体がまた一方に偏っているのかもしれません。

 

世の中のことって、だいたい少し議論すると「こういうものです、こっちが正しい」みたいに決着がつくことが多いと思いませんか。でもこの「音楽の習い事」にまつわる「常識」って、そうなりません。「これが正しい」と両極端な意見がいつまでも聞こえてきます。

 

そして、子供が中心にいるので、とてもデリケート。

 

同じ子供関係でも、学校や塾のような場所は、もうすこし分かりやすいと思うのです。多対多で、それぞれの立場を自分に置き換えて考えやすく、または想像しやすいため、外からも議論に入りやすい。いろんな立場からの声が反映されて、変化に繋がっています。

 

でも音楽は、そうならない。

まず、一般の人には分かりづらい。「分かりづらい」ように作られているのです。

 

たとえば「英語を習う」というのと「ピアノやバイオリンを習う」というのでは、何かが徹底的に違うらしいのです。

 

何が違うんでしょうね。

 

最初は、同じに思えます。「あるある」前半の状態です。これはこれで、このままでは先生がパンク寸前まで行ってしまいそうで心配。つまり先生が教えているのは、まだ「芸術」ではないのです。

 

あるときから変わります。同じ先生、同じ生徒ですよ。

だんだん、「芸術」を教える先生になり、教わる生徒になっていく。

 

「芸術」というカテゴリになった途端、物差しを変えなければならないみたい。どうやら、独自の「世界」があるらしいのです。

 

その「世界」を作り上げて守っているのは先生方で、我々には守らねばならぬものがある、という信念がある。その「守らねばならぬもの」って?

 

人によります。一部の方が守ろうとしているもの、それが「あるある」なのです。

小さい声で正直に言いますよ。

私には、違和感しかない・・

 

芸術を学びたい人が稽古に励む。すでに学び習得した人が指導者となり伝授する。つまりはそういうことなのでは?と思うのですが。

なにか途中で、ねじれたまま止まっているものがある気がします。大学の授業などで、とことん議論するような機会はないのでしょうか?卒業後、大多数が「伝授する側」として社会に出て行くというのに。これからも、ある人たちは「同じ世界」を作り守っていくのでしょうか?